スペシャル連載コラム「社会福祉士・青嵐さんの自立支援の現場から」障がい者福祉について考え続けるうちに〜「自立」とは何か?〜

最終回 日本にとっての「自立」とはどんなものかを考えよう。

今もって「福祉」に対する考え方は欧米と日本では明らかに違う。
歴史に裏づけられた「常識」も違う。
「自立」とは何ぞやを考えるとき、言葉の本質に込められた「常識」を理解せずに、その答えは見つからないのではないか。──前回の続きである。

信仰の対象である神とのつながり方の変化は欧米文化に多大な影響を与えたと思われる。古来、人は神父や教会を通して間接的に神とつながっていた。自らは判断基準を持たず教会に決定を任せていたのである。悪く言えば他人任せだったと言えよう。そこに、神父や教会を通り越し、人が直接神とつながる宗派が登場した。直接つながることができるということは、常に神を感じられる一方、自ら判断基準を持ち決定しなければいけなくなったということでもある。神と直接通じることにより自己決定という能力を手に入れると同時に「義務」というものを背負ったのである。そして、「義務」を理解し責任を持って自己決定を行うことによって「自立」を遂げたのである。

今日の障がい者支援の現場ではようやく障がい者自身による自己決定が行われはじめている。しかし、そこには自己決定により発生するはずの「義務」までを含めての支援はなされていない。「自立」への第一歩として「まず自己決定から」と言うのであればわからなくもないが「義務」そのものには気づいていないようにも見える。

明治以降、欧米の制度ばかりを輸入してきた日本は自国の思想をないがしろにしてきた。その結果が現在のような薄っぺらい皮一枚の制度を作り出す根源となっているのであろうが、これまでの日本に「自立」という概念がなかったかというとそうでもない。実は「自立」に似た概念として私は「武士道」が当てはまるのではないかと考えている。「武士道」には時代によっていろいろな見方があるが、本当の意味での武士、すなわち侍としての思想とはなんであろうか。私は「自分に否があればいつでも腹を切る」という覚悟のことではないかと思う。常に自分自身の決定に責任を持つということである。そして、その決定を行うために自己の中に確固たる規範を持ち物事を判断するということである。そうなると当然のことながら人に言われるまでもなく自身で責任をとれる。これは「自立」と言えないだろうか。

今となっては武士道を教えられる人はいないであろう。しかしその思想は日本という風土に深く根づいている。日本人の一人一人の心の中やふとした風習からその断片を感じ取ることができるはずである。それら断片をつなぎ合せ、日本人としてのアイデンティティに基づいた思想を確立し、日本人一人一人が「自立」しなければ、障がい者の真の「自立」もまたあり得ないのではないか。
そう思う今日この頃である。いかがなものであろうか。
 
※本コラムは、ワッホーニュース2009年4月号〜2010年2月号(全6回)に掲載されたものです。
 
青嵐 
生活介護・就労継続支援B型多機能型事業所職員。福祉の世界にとらわれない客観的かつ冷静な視線で、障がい者の「自立」とはどんなことかを考えて続けている社会福祉士。かたわら、伝統技術の習得に真剣に取り組む藍染師でもあります。
 
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